家族

 8月4日、家族が一人減りました。7月に足を折ってから寝たきりの状態が多くなった、ひいお婆ちゃんが突然亡くなったのです。
 
 3日の日に札幌に入院しているお婆ちゃんのお見舞いの帰りに父から電話で、
 「お婆ちゃん、あまり調子良くないみたいだから真っ直ぐ帰ってきて欲しい」
 私と母は夕方に帰ると、ひいお婆ちゃんは顔には冷や汗を掻き、呼吸をするのが苦しいのに、
 「おかえり、おかえり」と二回も言ってくれました。それが最後の言葉になりました。


 その深夜に、私と妹は残り300弱の千羽鶴を完成させて、ひいお婆ちゃんに見せたくてずっと折っていたのですが、お爺ちゃんが、様子がおかしいと。
 急いで一階のひいお婆ちゃんの部屋に行った時には、白い顔で呼吸の数少ないお婆ちゃんの姿が目に飛び込んできて、私たち3姉妹はすぐお婆ちゃんの手を握りしめて、
 「おばあちゃん!!」と何度も何度も呼びかけました。
 私は呼びかけ、手を握り、強く握らないと感じないほどの脈を探しました。
 お婆ちゃんは、1回だけ顔を歪め肩を上げ、深くを息を吸いました。
 最後の1滴の脈が流れ落ち、そのまま体温がどんどん下がってくるのを感じました。
 

 お婆ちゃんが亡くなった時でした。


 下がっていく体温を私たちが吸い取っているような嫌な感じがしたけど、最後までお婆ちゃんを感じていたかった。家族で最後を看取ったのです。
 お婆ちゃんが最後に言ってくれた「おかえり」の言葉がずっと、ずっと耳から離れなくて、私は涙が止まりませんでした。


 看護士さんが来て死亡を確認し、身の回りを片付け始めた時、妹2人がお婆ちゃんの日記を見つけ3人で読み始めました。
 日記は3年前から約1年間つけられていました。お婆ちゃんが93歳の時の出来事ばかりです。
 嬉しかった事、困った事、妹達2人が結婚で家を出て行って寂しかった事。妹達に子供ができて嬉しかった事。
 お婆ちゃんは毎日、誰が何処に行っていたの?と聞いていました。それは日記に書くためだと読んでいてわかった時、「もっと詳しく色んな事を話していれば日記も書くことがたくさんあったのに」と後悔し、インクが滲んでしまいました。


 その日に通夜が次の日に葬式と告別式が行われました。
 骨箱を背中に最後に父が挨拶をしました。
 父は同じ話を何度も繰り返していたので、緊張しているのかと私は思ってしまったけど、父はただ、胸が一杯で涙を流しながらお婆ちゃんの思い出を参列者に一生懸命に話していたのです。家族はみんなお婆ちゃんに育てられ、お婆ちゃんの思い出だらけなのです。


 お婆ちゃんが亡くなり家族が一人減り、それでも朝がやってきてご飯を食べ農家の仕事をし、生活していく。悲しいけれど、辛いけれど、お婆ちゃんがいたから家族が生きていける。もうお婆ちゃんに会えないけれど、家族は笑っていける。
 お婆ちゃんと過ごした生活や思い出は一生忘れません。